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当事者/他者

小学生の頃、授業の一環として中国のストリートチルドレンへの募金を募って送ったことがあった。

金額はよく覚えていないけど、自分たちの名前が載った立派な赤い感謝状を贈られた。
素直に嬉しかったんだけど、今一つ現実味がなかった。

何かの使命感に突き動かされて難民、孤児などの支援をしている人は国内外関わらずたくさんいる。
その何か、とは。
厳しい実情を見聞きして
実際に自分が経験して
いろんな動機があると思う。
今は資産家やセレブたちが行なっている支援活動から知ることも多い。
その入口が何にせよ、善いとされる行いをすることはその当事者にプラスになるだけでなく、支援する側に自信をもたらす。
誰かが自分を必要としてくれているということだ。

ここで考えたいのが、
当事者と他者
支援される側としての前者と
支援する側としての後者。

なんでこんな規模の大きな話をしたかというと、そういう難民支援の類は他者だからこそ出来るんじゃないかと感じたから。
こう言うと皮肉や嫌味に聞こえるかもしれないけど、ここではそんな薄っぺらいこと言いたいわけではなく…泣笑
何か自分に出来ることはないか、
どうにかして力になりたい
そう思うことって、当事者ではあり得ない。
ということは、偽善?なんて言いたいわけでは全くない。
それがたとえ偽善だとしても、善だから。
当事者からしたらもちろん嬉しいことだし、他者と繋がりを持つことの大半はプラス。

他者だから、優しく出来る部分ってある。
今度はぐっと規模を小さくして考えてみる。
友達には優しく出来るのに、家族や恋人には優しく出来ないときがある。
問題は、距離感だ。
距離感が近ければ近いほど、他者としての意識を忘れがち。
極端に言えば自分から見たら自分以外は、他者。
だから考えも価値観も違う。
目に見える距離感もそうでない距離感も、距離があることには変わりない。
そう考えると、いつもよりちょっと優しくなれるかも。

自分にとってunhappyな日があったとして、
どれくらいの距離感か、どんな関係か、関わらず、他者がちょっとhappyを与えてくれるとき。
他者だからこそ自分のタイミングと関係なくふいに、それをくれたりする。
それだけで、そのunhappyがhappyにシフトする。
そういうちょっと見逃しがちなことに、ちゃんとスポットライトを当てて大切にする。

当事者にも他者にもなり得る自分。
スケールの小さいところからしっかりと整えて、大きなところへ広げていく。
自分の基礎となるところがしっかりとしていなければ、たとえ一時的に広がったとしてもそこからの発展は困難だと、私は思う。
精神的な部分での難しさって、種類は違えど基本的なところでは、そう変わりないかもしれない。

11.Oct.17